ホットピ

内山幸樹(グループCEO)インタビュー(前編)

2021年04月07日
創業ストーリー

最終更新日:2021年6月4日

「知識循環型社会のインフラを担い、世界中の人々が“HOTTO(ほっと)”できる世界の実現に貢献する」。この存在意義のもと、2000年にホットリンクを創業した内山幸樹さん。

大学時代に知ったITの世界、日本最初期の検索エンジン立ち上げに携わった彼は、世界の広さと壁を知り、そこに挑戦し続けてきました。ホットリンクを創業して約20年、彼の足跡と未来への思いを聞きました。

少年時代、東大を目指した理由

――内山さんは少年時代、どんなことに興味があったんですか?

内山:

小学校〜中学校時代は普通の少年でした。特筆すべきことがあるといえば、小学3年生の頃から空手をやっていたことかな。結局大学1年まで続けて、北信越地区のチャンピオンになったり、国体にも出場しました。

僕は富山県の降雪量が多い地域の出身で、毎年冬になると寒稽古(かんげいこ)をやるんですよ。裸足で雪の上に立たされて、道着一枚で練習する。気温が低くてとにかく寒いけれど、弱い心に負けない稽古をするんです。黒帯を取ると、元旦は滝に打たれなくちゃいけなくてね(笑)。

でもこの空手のおかげで、逃げたい気持ちと立ち向かう心が培われたと思います。会社を経営して、倒産しそうなときや辛いことはたくさんあったけれど、常に笑いながら逃げずにやってこれたのも、子ども時代の空手の経験は大きいです。

――周りからはどんな人間だと思われていましたか?

内山:

ん〜、どうだろう。変わったやつと思われていたんじゃないかな。小学校3年のとき、1年中短パンで過ごした子が、新聞に載ったんですよ。「それなら俺は、1年中半袖短パンで過ごしてやろう。そうしたら、新聞に載るんじゃないか」と思って、半袖短パンチャレンジをしたんです。雪合戦も、半袖短パンでやってた(笑)。

4、5年生のときは、冬のなにげない日に長袖を着て挫折しちゃって。6年生のときに1年過ごしたんですが、結局新聞には載らなかったです(笑)。

人生の方向性を決めたインド旅行と、小さな挫折

――内山さんはその後東京大学の理科一類に進学して、船舶海洋工学科に進まれたんですよね。昔からこの分野に興味があったんですか?

内山:

全然興味はありませんでした。同時期の少年なら、消防士や弁護士、野球選手とかさまざまな職業を夢にいだくじゃないですか。でも僕は、そういう現実に魅力を感じられなかった。高校生の見える世界なんて実にちっぽけだし、僕には夢がなかった。

小中高の時期にずっと思っていたのは、「なぜ俺は戦国時代や明治維新のような激動の時代に生まれてこなかったんだろう」ということでした。

だから僕は、人生の選択肢を先延ばしするために東大を目指したんです。ひとまず東大の理科一類に行っておけば、3年次に工学部、理学部を選択できるし、医学部、文系学部にも転部できる。大学で見聞を広げ、自分の人生でやりたいことを見つけようと思ったんですね。

東大に進学してからは「政治家になるかもしれない」と思って弁論部に入ったり、電通に就職して世の中を面白くするかもしれないからイベントサークルに入ったり、普通の甘酸っぱい大学生活を送るためにテニスサークルに入ったり(笑)。人生でやりたいことをみつけるために、いろんなことをしていました。

しかし、どれも腑に落ちなかった。その過程で、「俺はなんで生まれてきたんだろう」という、若者にありがちな悩みにぶち当たりました。そのときに友人の家でたまたまヨガの本を読んだことがきっかけで、1人で約40日、インドへ初めての海外旅行をしました。ちょうど大学1年の終わり頃だったかな。

――実際に行ってみていかがでしたか?

内山:

いろいろな体験をしました。ヨガの道場に1週間いたり、途中で知り合ったイギリス人に誘われて、インド西部のゴア州に行ったり。

そこで僕は、ふたつのことに気づきました。ひとつは「とにかく必死に、今を生きるしかない」ということ。インドにいると、生きる目的どうこうより毎日生きるということだけで精一杯でしたから。

もうひとつは、「世界はすべて物理法則に従って生きている」ということ。あるパーティの翌朝、ぼーっとした頭で浜辺を歩いていると、海辺で波が寄せては引いてを繰り返していました。それを眺めていた僕の頭に、突如数式が流れ込んできたんです。

波は一見無秩序だけれど、実は自然が生み出した物理法則に従っている。僕が今座っている石も、すぐそばにあるヤシの木も、顔をなでる風も。世界はすべて物理法則に従って生きていると感じた瞬間、この世界がとても美しく見えるようになったんです。

りんごが木から落ちる様子を見ても、普通の人は何も感じません。しかしニュートンは、それを見て万有引力の法則に思い至った。僕にとってそれくらいの衝撃でした。

それから帰国して、2年次の授業を受けていたときです。あれだけインドで強烈な体験をしたのに、机に座って勉強していることにモヤモヤしていました。しかし物理の授業を聴いていたとき、インドで感じた気持ちがまたぶり返してきたんですね。

例えば音楽家・作曲家が、何百年も前に遺した音楽。そこには、曲が生まれるはるか昔から、自然の物理法則のなかに存在した「美しい音の組み合わせ」が内包されています。画家や写真家も、自然にある景色に隠れた美しさを見出し、形にしている。

それは、インドで感じた「自然の美しさ」そのものでした。けれど、僕には芸術家のような才能がない。だから、物理学者になり、物理という虫眼鏡を通して、自然の美しさを垣間見たいと思うようになりました

東大では2年次の終わりに、進学先の学部・学科の希望を出します。第一希望は、理学部物理学科。けれどそこは、成績最優秀者しか入れない。僕はサークル活動やインド旅行がたたって、成績が悪かったんです(笑)。そこで第二志望は、絶対定員割れするだろうと予想して船舶海洋工学科にしました。

アメリカズカップで得た「ホットリンクの原体験」

――船舶海洋工学科を熱望していたわけじゃなかったんですね。

内山:

そうですね。でも船舶海洋工学科は、海の流れ・水の流れを物理法則を元に解き明かす学問です。インドの海を見て自然の美しさを垣間見た僕は、この分野を本気で勉強してみようと思いました。

僕の研究室は、船の周りの水流をコンピューターシミュレーションする分野で、世界的に知られていました。それもあって、僕はアメリカズカップ(※)の日本代表艇の設計チームに参加することができて、そこで初めて「世界と戦う」という興奮を知ったんです。

※アメリカズカップ

1851年から現在まで続く、国際ヨットレース。4年に一度開催され、「海上のF1レース」とも言われる。

――中高時代、「なぜ俺は戦国時代、明治維新の激動の時代に生まれてこなかったんだろう」と思っていたとおっしゃいました。誰かと競い合うことが好きだったんでしょうか?

内山:

幼い頃から、「大きなことをしてみたい」という思いはあったかな。競い合うという意味ではなく。

アメリカズカップは、超ハイレベルなテクノロジーの勝負なんですよ。どうやって水の抵抗を小さくする船の形を作るか、という数値流体力学。セイル(帆)をどんな形にすると高い推力を生むか、という空気力学。船の揺れをコントロールする制御工学、人工衛星からの画像を分析し、潮流を読む画像解析……様々な技術分野に精通したプロフェッショナルたちが、チームを組んで戦うんですね。

テクノロジーの粋を尽くして、「僕たちのヨットはこう走らせたら絶対速い」という結論を出す。しかし、当時日本の船を運転していた世界2位のスキッパー(ヨットの船長)は、「これでは遅い」と言うんです。実験してみると、確かに彼の感性が正しかったんです。シミュレーションでは、僕たちの考えが正しいはずなのに。

そこで気づいたことは、「テクノロジーは、人間の感性を組み合わせることで初めて進化する」ということでした。この考えが、今のホットリンクの原体験になっています。

例えば人工知能を活用して、ものすごく便利な検索エンジンを作りたい。けれど「そのホームページは初心者に分かりやすい」のか、「この動画は人を感動させる」のか、人工知能では判断できません。

僕たち人間がコメントした、いいねした、リツイートした、リンクを貼った、ブックマークした。こうした世界中の人間のアクション=知恵を集め、人工知能が学習する。それを元にユーザーにおすすめのサイトを教え、僕たちはそれに好き・嫌いという返事を返す。

こうやって「人工知能と人間が協力して初めて、すごい検索エンジンや社会インフラができ、世界中の人々が“HOTTO(ほっと)”できる世界が作れるよね」。それが、ホットリンクが創業時に目指した社会の姿であり、社名の由来なんです。

検索エンジンとの出会いと、最初の敗北

――アメリカズカップの体験から、インターネット、検索エンジンとの出会うまでの経緯も聞かせてください。

内山:

当時、大学でインターネットの授業があったんですよね。ホームページになにかを入力したら、サーバー側でプログラムが反映されてページが書き換わる。こうした一連の流れや実際に掲示板を作る過程で、研究室の先輩と通販サービスを立ち上げたんです。

当時はサーバーひとつ開設するのに数百万円、10Mbpsの回線が月額100〜200万円もかかるから、個人では到底手が出せませんでした。そこで卸売業者をしていた先輩のおじさんに相談して、サーバーを開設し、キーワードや条件を指定検索して出てきた商品をクレジットカードで購入できるサービスを作ったりしていました。

アメリカではすでにYahoo!が誕生していましたが、まだ「条件検索」という機能がなかった1995年に、キーワードや複雑な条件の組み合わせによる商品検索エンジンを作ったんです

当時の日本でインターネットに関する情報を多くもっていたのは大学だったので、大学中に、「君たちの技術で世界をあっと言わせませんか」とビラをまいたんです。この募集は早稲田や慶応にまで広がり、総勢約2,000名の技術者のデータベースが完成しました。

そこから各企業にホームページ制作を始めとしたインターネット関連の技術者を派遣する、「学生技術者派遣センター」を作りました。当時はまだインターン制度が普及していなかったけれど、学生で月収100万円を稼ぐような人たちが生まれ始めました。

そうしているうちに僕は、慶応大学の学生らとリクルートの人が一緒に起業して立ち上げた、日本最初期の検索エンジンである「NIPPON SEARCH ENGINE」の開発に携わるようになりました

当時はまだYahoo! JapanやGoogleも存在していない時で、当時は、「NIPPON SEARCH ENGINE」の他には、東大や早稲田大学の学生が公開していた 検索エンジンがあったくらいでした。

そうしたら、 某大手通信会社のトップが「君たちを1億円で買いたい」とオファーを出してくださったんです

――え、あの有名な方がですか?

内山:

そうです。どこまで本気だったのかは分かりませんが(笑)。でも僕たちは、「大人になんて買われたくないよね」と断りました。その後、その方に僕たちのサービスはこてんぱんに叩きのめされることになるんですけど(笑)。

ホットリンク誕生秘話

――このあたりから、ホットリンク創業に話がつながっていきそうですね。

内山:

当時、僕はさまざまな技術を持つ大学生を研究室に招いて、プログラムを作ってもらいました。そうしたら、大学教授が怒って(笑)。「1年やるから、ビジネスをやるのか研究をするのか決めろ」と言われました。

僕はやはり、アメリカズカップの体験が忘れられなかった。当時は教授の下で世界と戦ったけれど、インターネットの世界なら僕が先頭に立って世界と戦える。そのワクワク感を味わいたくて、1997年に東大を中退し「NIPPON SEARCH ENGINE」を作っていたベンチャー企業に、常務としてジョインしました。それが、最終的に先ほどの検索エンジンビジネスでの敗北につながるわけです。

当時僕は、研究開発にかなり力を入れていました。人間の知恵を人工知能が学習すれば、すごい検索エンジンができる。人と人工知能が協調し、知識が循環する社会=「知識循環型社会」の構想をいだくようになったのもこの頃です

そんな折、2,000人の学生技術者データベースの中のある学生が、「内山さん、うちの親父と会ってください」と紹介してくれました。その方は、半導体商社のトップを経験した方で、シリコンバレーで多くの企業と取引を経験されていました。

彼はシリコンバレーでエンジェル投資をし、10数社をナスダック上場へ導いた経験を持っていました。僕が会いに行くと、「内山くんは世界をあっと言わせたいらしいけど、世界標準を知っているのかね」と聞いてきました。

知りませんと答えたら、何度かシリコンバレーへと連れて行ってくれました。そこで僕は、ナスダックの上場企業のCEOが大豪邸でパーティをする、まさにアメリカのネット時代全盛期を目の当たりにしたんです。いろんな上場した会社の社長さんや、上場したインド人の大豪邸のパーティに呼ばれて、アメリカのネット全盛期を見るわけです。「かっこいい!」と思いましたね。

シリコンバレーでは、成功した起業家、投資家や大学教授までいろいろな方に引き合わせられ、アイデアをプレゼンするように求められました。僕は起業するつもりで来たわけじゃないですが、当時考えていた(今で言う)ソーシャル・ビッグデータとAIを組み合わせた社会インフラについて話しました。

アメリカのすごいところは、僕の話を聞いた投資家が翌日「君の考えていることの独占利用権が欲しい」と契約書を持ってきたりするんですよ。さすがにその場では断りましたが、気分よく日本に戻り、「これはいけるかも」とビジネスプランを書いて一発起業してやろうと企むわけです。

けれど、日本で言われたのは「内山さんはエンジニアですけど、営業したことはあるんですか?」「導入実績はあるんですか?」と否定的な言葉ばかりでした。

アメリカは「お前は金が欲しいのか、ビジネスパートナーがほしいのか、売り先が欲しいのか。教えてくれれば、今日の夕方にはその分野のエキスパートと会わせてやる」という感じ。とことんヒーローになれ、その代わりリターンはもらうよという、ギブアンドテイクの関係性が明確なんです

「日本は窮屈だ、もっとアメリカみたいな会社を作りたい」と思いました。そのとき、僕を助けてくれたのが、『君に武器を与えよう』などの著者で知られる、瀧本哲史君です。実は彼、大学時代の弁論部の同期なんですよ。

――彼の本は持っていますが、そんな関係があったんですね。

内山:

当時、彼はマッキンゼー・アンド・カンパニーに在籍していました。僕がシリコンバレーから、「どうしても起業をしたいアイディアがある。聞いてくれないか」と尋ねると、「夜中の1時からなら空いてるよ」と返してくるんです(笑)。

実際に、帰国してからは夜中1時に毎日マッキンゼーに通いました。真夜中のオフィスでアイデアをホワイトボードに書いて、喧々諤々議論し、一緒にビジネスプランを作って、2000年に立ち上げたのがホットリンクです。

瀧本君は有名なエンジェル投資家だったけれど、最初の投資がホットリンクです。創業当初、副社長としてジョインしました。このことを、彼は亡くなるまで略歴上で隠していたんですよ。この前、彼を偲ぶ会で、暴露しましたけど(笑)。

このとき、僕をシリコンバレーに何度も連れだしてくれた方が1億円を投資してくれました。「君が創業したら必ず出資してあげるから」と言ってくれていたのですが、僕と瀧本くんと学生10人くらいしかいない会社に本当に出資してくださったんです

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